36歳都内在住、既婚女の日記

夫婦で自営業の妻。飲食店。乳児の母。育児の不安に加え、なにかと不安な36歳。

里帰りをしみじみと。

さて、いよいよ正期産と呼ばれる37週に突入し、実家のある杉並区へ里帰りをしている。分娩する病院での妊婦健診も週一回のペースとなり、これまでどの時期においても比較的よく動ける方であった私も、さすがに長い時間外にはいられなくなってきた。おかげさまで経過は順調であるため必要以上に安静を強いられることもなく、動かなすぎるのも良くないので一日のうちに一度は必ず外の空気を吸いに出るようにしている。もちろん毎日調子が良いわけでもないので、気分の乗らない日はベッドで寝てばかりの日もある。

 

里帰り前の数日間はかなり心が落ち込んでいた。当日も、いざしてからもしばらく、落ち込んでいた。寂しくて仕方ないのである。夫と愛猫と離れるのがとにかく辛い。いつもは内心で舌打ちしたりしてるにも関わらず、こんなに自分が寂しい気持ちになるなんて、予想していなかった。

今日は天気も良く、先日の健診においても概ね良好とのことであったため近所を一人、散歩してみた。

 

私が実家にいたのはもう16年近く前の話なので、当然ながら多くの景観に変化がある。
事情により同区で実家の引っ越しが二回あったので、現在の実家の前に住んでいた場所のうちの一カ所を通ってみることにした。

その場所に行くまでの道すがら、静かな寺がある。親に聞くところによると、ここ最近では庭のライトアップなどをしているらしい。こんなほぼ住宅地の都内の寺でどういうつもりかは知らないが、こじんまりとしつつもなかなか綺麗な寺だ。昔から除夜の鐘などもついており、大晦日に甘酒をもらいに行ったなあと思い出す。
遠い親戚の墓も確かあったかと思う。誰のだか忘れたが。


私の両親は共に杉並区の出身であるため、父方、母方の祖父母の家も生前はこの近くにあった。通っていた中学校もこの近くであったし、20代半ばに一人暮らしをする際、部屋を借りたのもこの近くであった。あらゆるエピソードがあるといえばある、そんな場所だ。


もっとゴチャゴチャと学生時代の事などが思い出されるかな?とてくてく歩いてみたが、心を揺さぶったのは実にシンプルで、その寺の角を曲がる瞬間の景色のみであった。

 

モミジがトンネルのようになっている。
トンネルと呼べるほど実際には立派でもないのだが、見上げてみると空を仰ぐには邪魔をするかのように、モミジの葉っぱがカーテンのように連なっている。
季節的に、紅葉のピークを迎えているものもあれば過ぎたものもあり、まだ迎えていないものもあり、要は見目に赤黄緑と
三原色が並ぶのに(それを言うなら厳密には青だけど)、決して派手な色彩には感じない。ずいぶんと落ち着いた色に見える。

私はクリスチャンなので寺について宗教的にはどうとも思わないし、パワースポットだとか浄化されるとかは興味がないのだが(お守りなどを頂戴するのはそのお気持ちが本当に嬉しいので感謝しております!)、単純に建物として綺麗だなとか、空気の落ち着きを
感じることはある。
昔はそれを「日本人ゆえの遺伝子」だからと勘違いしていたが、30を過ぎてからは「懐古」と「人間ゆえの遺伝子」だからだと思っている。

 

物心ついたころからなじみのある景観、誰かの生死の節目、神聖とされる場所、行事ごと、生きている間に体験する場面として実に深く刷り込まれる機会の多いのが寺と神社だ。
そこには友達と行った縁日、だとか、毎年盛大なお祭り、だとか、実際の生きた人間関係においての記憶も共に重なりゆく。地元であればあるほど、そこで歳を重ねて子供から大人へ成長してきた確かな歩みを振り返ることができるし、振り返る際にわいてくる想いはどこかきゅっとくるような切なさがあるのではなかろうか。そしてほんのりと、温かさも。

それはごっちゃになりがちだが、決して「信仰」や「国民性」によるものではない。日本人として生まれても、仮に私がタイで育てば、スイスで育てば、メキシコで育てば、ケニアで育てば、その土地その土地の景観を懐かしみ愛おしいと思うであろう。ゆえに、「日本人だから」寺社仏閣に落ち着きを覚えるものとは思っておらず、それは現在進行形で生きる自分の半生の懐古であり、またひょっとすると親や祖父母といった先代たちの語ってきた記憶に基づく懐古であり、それ以上でも以下でもないと私は考えている。私はね。

 

そして、同じく懐かしいとか思い入れのある場所ならば、どんな人の記憶にももっともっとあるであろう。学校はじめ、毎日立ち寄ったコンビニやらファミレスやらあるかもしれないが、みな、いくら青春の思い出の詰まった特別なコンビニだからって、セブンイレ〇ンに拝んだり願掛けしたりはしない。

 

「人間」のいるところには必ず信仰心がある。いやいや俺は何も信じない無神論者だぜ、という人はたくさんいるしそれはそれで結構なことなのだが、そういった人であっても例えば電柱に小便はしても、見知らぬ人の墓に小便したりはそうしないわけで、目には見えない何かしらを、多かれ少なかれ潜在的に区別して行いを変えることというのは誰もに共通する心理ではなかろうか。あとは大自然を前に圧倒され、怖くなる気持ちも似ているのかもしれない。

 

今日は寺のモミジに、自分の幼い頃の記憶をも引っ張りだされて少し切なくなったが同時に嬉しくもあった。
亡き祖父母たちと、この道を通った小さい自分の姿を見たような気持ちだ。実際手を繋いで通ったし、その都度どんな気持ちだったかに思いを馳せると少し涙が出た。

 

これから生まれるお腹の赤ちゃんのことで、大人になってこうしてこの道を歩いているだなんて小さかった自分にはまるで想像のできない未来なのだろう。

私の両親も、私が生まれるにあたってどんな気持ちで過ごしていたのかなと思う。里帰りは寂しいけれど、両親とこんなふうにゆっくり過ごせることもそうそうない事なのだ。

よく考えてもみたら、同じ都内に住んでいながら実家には正月くらいしか来ていなかった。

 

赤ちゃんの体重は2600gを越え、もういつ生まれても良い状態とのこと。
いったい、どんな子なんだろう…  会うのがドキドキする。

 

出産が怖いのは変わらないけれど、きっと母も祖母も、こんな気持ちになってその日を迎えてきたのだろうとふと思った今日この頃。そして、夫の親族もまた同じようにドラマがさかのぼって存在するのだ。先祖をたどると誰しもが、あまりにも莫大すぎる人の数になるのだ。漠然と圧倒されてしまう。


しみじみ、人の誕生って不思議と奇跡の連続なのだなあ。お腹の子をこの手に抱くとき、どんな気持ちになるのかな。目前に差し迫りながら、不思議な想いでいっぱいです。