36歳都内在住、既婚女の日記

夫婦で自営業の妻。飲食店。乳児の母。育児の不安に加え、なにかと不安な36歳。

恐怖の内訳

この週数なので、今更極端にお腹の大きさが変わることはないのだが体の中が変わってきつつあるのを感じている。動き辛さであったり、胎動の変化であったり、不眠であったりその他細かな体調面での違いが、近い未来に迫っている出産のその日を自分に教えているのだろう。

 

情緒不安定な時期が長かったことについてはこれまでも書かせて頂いたが、里帰り中の今も、わけもなく涙が出る日がある。目覚めと同時に涙が出る。そういう時はしばらく流れに身を任せて涙を流し、自然に止まるまで待ってから朝食をとるなど次の動作に入ることにしている。他のことをしているうちに涙が乾いてくることもあれば、またふと止まらなくなるときもある。今まではそこで読書したりネットサーフィンしたりと強引に気を紛らわそうとしたが、正期産の今それはもうやめた。別に泣いてても良いだろう。おそらく体がそのように求めているのだと思う。

毎日、疲れる。生きているだけで。
正直もっともっと、ハッピーで浮かれた日々になるのかと思っていた。妊婦さんて、幸せそうなイメージだったからだ。そしてそれは妊婦に限らず、結婚したらとか志望校に合格できたらとか、いろいろな節目にて思うことであると思う。


ただ、妊娠した心身というものが「実質的にここまで自分の意思が反映できない状態なのね」という体験であるのは未知の世界としか言いようがない。

とはいえ悪阻などあらゆる面で症状は軽い方であったし、経過も順調でどの時期においても比較的よく動けたからこそ、泣いて泣いて辛くなるほど働けたのだ。妊娠中毒症や切迫、胎児に何かしらの問題が生じていたらこんなふうに妊娠生活を送れはしなかった。強制的に絶対安静になり得るし仕事どころではなくなるケースも多々ある。元気に動けたのは、本当に恵まれていることなのだ。

ましてやこの週数に至るまで、胎の子がすくすくと成長し命のあることは奇跡的なのだ。

にもかかわらず、私の心は全時期に渡って曇っており、未だにきれいに晴れることはないのである。
望んでいたやっとの妊娠がこの身の上にやってきて、幸せで感謝に溢れるばかりのはずが。
嬉しくて、赤ちゃんとの対面の日を楽しみに思う心もありながら。
赤ちゃんの使うものをせっせと準備し、洋服など水通しをすればあまりの愛おしさにたまらなくなるのに、私の心は「私」から変わることを何よりも恐れている。

 

それは母になる、ということを含んでいるが、いわゆる「母になれるかどうか」という不安は、正直あまりない。なぜなら赤ちゃんが私を母にするのであって、そもそも私単独で母にはなり得ないし、無事に産声を上げる恵みを賜わるのならばその瞬間から現実が私を動かしていき、嫌でも母としての行動を重ねるのだ。

き物は意思とか意識ではなく、行動の積み重ねで変えられていくと思っているのでどれだけ意識が低かろうと私は母へならざるを得ない。ネガティブに感じられるかもしれないが、私はそのような理由から母になることについての不安はあまり感じていない。

ただ、今の私でなくなることがとにかく怖いのだ。

きっと大げさな心配なのであろうと思う。性根が変わることはないのだろうし、趣味嗜好も引き続き私であることに違いないのに、どうも今は怖くて仕方ない。
これまでやってきたこの感覚が、すべて覆される予感がするからこそ、出産が怖い。出産という行為そのものの、痛みの点でもおおいに怖いのはもちろんだが、
自分の大切に思うものや感情、単純な好みや優先順位、視界に入るものの見え方が、「母」へ変わることが怖い。
私は両極端な性格なので白か黒かでしか考えられなかったりすることが多く、これまでも生き辛いことは多々あったがよけいにそうなりそうで怖い。

 

既にいくつか、これまではむしろ好きであったものが嫌いになりつつあったりするので自分で寂しく感じたりする。誤解されたくはないのだが、ここから起こりうる変化にマイナスイメージを抱えているわけではない。むしろ、想像を超えるような幸せな気持ちを体験したりもすることと思っている。我が子への愛おしさ、という初めて体験していく想いをもってこれから生きていくのだ。それは、怖いという気持ちが隠してしまうだけで、本当は喜びに溢れているものと知っている。恐れと不安は確かに今、私の目の前を塞いでいるが、その周りにはいやでも漏れてしまうかのような光を感じている。言い換えれば、もはや恐れや不安では太刀打ちできないのだ。もっともっと力強く存在する希望が、私の胎にある。

 

ああ、そうか、きっと一番怖いのは今の私でなくなること、ではない。表面上の言葉としてはそれで合っているのだけれど、厳密に突き詰めるならば「今の私を失うこと」が「人生のマックスを失うこと」と同義語であり、それは日々過去よりも今が一番と思っているからこそではあるのだが、一見現状に感謝をしているようで実は諦めているだけの心理といえる。
無意識のうちに今より幸せな状態を自分で描けない癖がついてしまっていたのだ。

はっきりと分かった、

私は幸せを享受することが怖いのだ。

腑に落ちた、という言葉をこんなにも納得して感じたのはこれが生まれて初めてのことかもしれない。


本当に愛する人と一緒になって、家庭を築くことなど、夢か幻ではなかろうか?そんな想いが自覚の届かぬ胸の奥に、ずっと息を潜めていた。

自分なんかが、という言葉は呪いだ。特に、人に言われるよりも自らに思うことは。


分かっていたのに自分でその言葉の呪いをかけていたと今更知った気がする。自分なんかが、幸せで良いのかな、失いたくないから欲しくない。そういうものが沢山ありすぎて、欲しいと願うこと自体やめていたのかもしれない。全力で大切にすれば良いだけの、シンプルなことなのに。


予定日のクリスマスまで10日を切った。


良かった、この子と対面する前に、私はこの幸せの享受を怖がる者から喜んで受ける者に変われそうだ。

いや、むしろ願うとするならそう変われることを今は切に求めればよいのだと頭も心もすっきりした。
そして、今は静かに夫のことを想っている。
普段はぶつかることばかりだが、私の幸せは夫と共にあり、夫の存在は宝物であり、いつも愛おしい。この人と出会えたこと、一緒になれたこと、そしてこれからも歩んでいくことを私はこの人生で心から誇り、楽しみ、愛していきたいと思う。


少し重くなりました。あと一回くらい更新できるかな?私の深層心理のゴタゴタをお読み頂きありがとうございます。