36歳都内在住、既婚女の日記

夫婦で自営業の妻。飲食店。乳児の母。育児の不安に加え、なにかと不安な36歳。

おかんのなりかけ

「赤ちゃんて、いったい何なんだ」と最近よく思っている。生後三か月が過ぎ、体重は出生時の倍以上になり、表情豊かになってきた娘。そろそろ寝返りをしそうな気配だ。

 

私の顔を見て、にっこりと笑う。

説明するのも馬鹿らしく感じるほど、なぜなら自分の知る全ての言葉をもってしても到底表現が出来ないと圧倒されるのであるが、それは今まで見てきたこの世の何よりも愛おしく、私のような者が抱っこをすると喜んでくれる姿は、いつもこちらが愛してもらっている感覚になる。成長を見つめつつ、日々娘に愛されていること。何の取柄もない私だが、娘からもらう愛情は私の至らなさを包み、弱さもそのままに、存在することをゆるしてくれているように感じる。

 

いったい、彼女の目に、私や夫はどう映っているのだろう。父母だと理解しているのであろうか。生物学的にも母親の匂いや声を知っているそうだが、理解というものとはまた違うと思われる。

出産に至るまでの間、この腹の中にいた。産道を通り抜けてくるその日を境に、世で息をしていく。人間の記憶とは、どのように築きあげられるのであろうか。胎の中での記憶はどうしてハッキリとないのであろう(たまにそういうの物語る本とかもあるけど)。

 

彼女と対峙しているとき、私にはあまりお世話をしているとか育児という感覚がない。出会ってまだ三か月の存在である。どうにも時間軸が狂わされているのか、それこそ私自身が母親の胎にいるときから、彼女を知っていたような気持ちに陥る瞬間がある。36歳で彼女を出産するまでの間、いろいろの事を経た。その間は、私は彼女のことを知らなかったはずだ。にもかかわらず、どうしてか、すべてがこのために動いていた流れのように感じ、そしてその流れは有無を言わさぬ圧倒的な力を持っていて、私の持論なんぞいとも簡単に封じ込める。理屈を簡単に超えていってしまう。

 

何かの冊子で、次のようなフレーズを読んだ。

「親とは、赤ちゃんに初めて世界を紹介する人」

そのためには、例えば早期教育に躍起になったり、合理性を考えて育児方法を選ぶのではなく、ただシンプルに在れば良いのだと私は解釈をする。赤ちゃんに媚びたような内容の音楽や絵本は必要なく、穏やかな言葉と生活の音こそが、もっとも最初の刺激にふさわしい。育児の名言はいくらでもある。良しとされている概念も、選びきれないほどある。〇〇式、とか世界中に溢れている。

でも、そのどれでもなく、世界を紹介するのが私の役目であるのなら、私の言葉で語りかけ、私の目で彼女を見つめ、私の耳で彼女の声を聴こう。私の手は彼女に触れるために、私の足は彼女と連れ立って歩むために、私の命は彼女と共に時を過ごそう。

 

近年よく見かける「これだと泣き止む」「これだと笑う」などの評判ではなくて、これから触れていく音楽や絵本も、大切に選んで紹介していこう。「いや、でも自分の感覚なんて自信ないし」と、「誰かが認めた誰かの考え」を自らに遂行してしまいがちなのも気持ちは分かる。私だって自分という人間に自信などない。じゃあ、お手本があって、それに従えば正しいというのか?

自分の人生がそうであるように、彼女の人生はこの世でただ一つで、何かに倣うだけでは充実した生き方になり得ないともう知っている。音楽には音階があるように、美術には色彩があるように、あんな人もいればこんな人もいて、その一つ一つがたった一つしかないものである。私は、人より出来ないことも沢山あるし今だって困り事も多いが、他の人生になりたいとは思わない。同時に、誰のことも否定したくないといつも思っている(ついカッとしてしまいがちだけどね)

 

つたないかもしれないが、私が私として真摯に彼女に向き合うことだけは、私に与えられた力の一つである。それをすれば良い。「これで良いのかな」と頭を抱えて悩み続けることも、親の責任の一つに含まれているのだと思う。最良を与えようとすれば悩む。でも最良なんてものは求められていない。求められているのは、「私」そのものと、「私が母であること」だ。

 

たかだか三か月しか育児をしていない分際で生意気を語ってしまったが、このような状況だからこそしかと考えを明確にしておきたかった。この先、彼女を育てながら多くの悩み、難関にぶち当たるであろう。その際に立ち帰るべき心の指針を、私事極まりないがここに書き記す。

赤ちゃんて、いったい何なのだろう。

さながら全き愛、を具現化したかのような、体は小さくも、強く確固たる存在だなあと、日々感じている。目覚めた瞬間に、横に寝ていた彼女と目が合いニッコリ微笑まれると、朝から泣けてくる。あまりの温かさで涙が出ることを、私は今心から幸せに思う。