37歳都内在住、既婚女の日記

夫婦で自営業の妻。飲食店。1歳と0歳の姉妹の母。少々病み気味、西東京出身、東東京在住。プロテスタント。

猫リズム

猫が好きだ。可愛い、とももちろん思うが、それ以上に共に生活しやすい存在というか、仲間のような感覚だ。私視点でざっくり言うと、性に合う生き物のように思う。

 

生まれた時から猫がいた。というより今に至るまで、猫のいない生活をしたことがない。いない生活というのが想像できない。べたべたに可愛がることは昔からしないし、私から触りにいくこともしないが、ふと酒を飲むときに膝にいたり、一緒に寝たり、何かしているときにはむこうも勝手に何かしているような感じが非常に心地よい。視界の片隅にちょろちょろしているあの感じ、適度な距離感とでもいうべきか。

仕事をしようとするとPCに乗ってきたり、出かけようとするとカバンや靴に乗っていたり、スマホが見当たらないと思うとそのお腹の下に温められたりしているのも、どいてくれ!と言いつつ心地よい。

 

過去に何匹と看取ってきた。十数年と共に生きてきた仲間を見送るのは、胸が裂けそうに痛くなる(うちの一匹は22年の大往生)。

 

一人暮らしの時に飼っていたポコという猫との別れは堪えた。初婚の時に飼っていて、離婚し私が引き取って暮らしていた。のちに夫と出会い共に暮らした。私という者の激動の環境の変化を、一緒に経てくれた。ポコは私と夫が籍を入れた翌日に、旅立った。見届けてくれた。私達の結婚記念日は、同時にポコを想う日でもある。

 

自分に言い聞かせるように毎度思う事だが、看取る辛さは、幸せなことだ。猫が飼い主に先立たれてしまえば、どういう事になるか。もっと最悪な最期になり得る。人間とは寿命が違う。自分と共に生きる中で、それをまっとうしてくれたというなら、その辛さは本当に幸せなことなのだ。別れが辛くなるほど、素敵な時間を過ごさせてくれたのだから、心から大切に見送りたい。

 

話はそれるが、実は亀も好きである。夫が苦手なので今は飼っていないが、実家の亀はもう30歳くらいになるのではないだろうか。亀のもつ、あの空気感も私には心地よい。ポカンとしているのだ。何があっても頑としてポカンとしている。刺身などをあげると張り切りも見せてくれるが、人が怒っていようが泣いていようが徹底してポカンとしている。ただ、里帰り中メソメソしていたとき、1度だけ水槽からトコトコ出てきてひょっこりこちらを見つめてきたことがあった。「もしかして気遣ってくれたの…?!」と思うやいなや、母が帰宅しささみをあげようとしたら即去って行った。別に良いけど。

 

よく犬好きな人は犬っぽいとか猫好きな人は猫っぽいとか言われるが、そうなると私は猫に加えて亀っぽいということか。確かに自分の顔は亀に似ている気がする。

 

猫はずいぶん自分勝手だなぁと思うことがしばしある。甘えたいときに好きなだけ甘え、気が向かなければ私のことなど完全にシカトする。でもそういうものと子供の頃から思っているので、いろんなタイプの人に出会っても、「そういうもの」と簡単に思ってしまえる自分がいる。猫や亀以外でもそうだが、人間ではない違う生き物はひとえに皆、人間と異なるそれぞれの時間軸がある。すなわち命のリズムだ。それを違う者同士で共有し、慈しみながら暮らしていくということが、本来の「ペットとの暮らし」なのだろう。私はそのような暮らしが好きだし、自分と異なる命のリズムが重なることで聴こえてくる、音楽のような、例えようのないあたたかな生活を愛しく思う。

 

コロナの事で何もかも切羽詰まっている中、他の動物どころの騒ぎではない!と思う方も多いかと思う。実際私も切羽詰まっている。ただ、猫を見ていると、今日もさぞ当たり前のように「俄然、生きてるだけ」といわんばかりに佇んでいる。今日の飯を食らい、今日の睡眠をとり、今日の遊びを楽しんでいる。

 

逃げも隠れもする必要はない。生きていくだけだ。怖いウイルスだが、いってしまえば逃げようとしても逃げられないのだ。誰しもが明日発症するかも、とか死んじゃうかも、と不安になっている。経済的影響ももれなくバンバンやってくる。先の安心など誰にもない。でもそんなものは、コロナの前から誰にも持たされていない。はじめからないもののことで、急にそれが欲しくなったような違和感。既に感じている人も増えているのではないだろうか。

 

自宅での時間が増えた今、またしてもすっかり、猫に骨抜きにされている。

愛猫家の中にはこの状況で、猫リズムにより仕事のはかどらない人も多いと思いますが、がんばりましょう!