37歳都内在住、既婚女の日記

夫婦で自営業の妻。飲食店。1歳と0歳の姉妹の母。少々病み気味、西東京出身、東東京在住。プロテスタント。

MITSOUKO

父方の祖母はとてもオシャレで小粋な人であった。私が成人した年に亡くなっているので、見送ってからはもう久しいが、何かにつけてはふと思う存在である。

 

職業柄、また今は乳児もいるため特にであるが私は香水をつけない。ただ昔から香りというものには非常に興味があった。音楽と同じく、香りひとつで一気に過去がよみがえったり忘れていた人を思い出したりする。記憶へ働きかける力が強いのであろう。

 

祖母はいくつか愛用の香水があった。ほとんどがシャネルの製品であったが、一つだけゲランの物があった。ミツコ、という香水だ。学生時代の私は「ババアくせえ匂いだなあ」とよく言い、その度に「あんたみたいな若造には到底似合わないわね。せいぜい似合う年になった頃、香水くらい好きに買える人生にしなさいな」と言われた。

晩年の祖母は骨髄液のガンを患い、入院していた。月日と共にやせ細るのが目に見えて分かったが、気の強さを失わない人であった。

死期がそれなりに分かりつつあったある時、外泊許可が下りた。病院と自宅は車で15分ほど、外に出る瞬間は車の乗り降りのタイミングだけである。トータルで5分あるかないか。

冬であったので、私は「あったか靴下」とか「あったか半纏」みたいなものを準備して迎えに行こうと思っていたのだが、事前に祖母に呼び出され、言いつけられた。

「恵さん、クリーニング屋に預けてるファーのコート、ミンクよ、茶色のやつ取ってきて。靴はローヒールの物から何足か持ってきて、当日選ぶから。お洋服は着たいブラウスがあるからそれ持って、○○さん(よく行っていた服屋の店員さん)にスカート選んできてもらって頂戴。」

私はギョッとし、「寒いよ、あったかくしないと。それに外出るの一瞬じゃん」と言うと

「うるさいわね、私はあと何回オシャレできるか分からないのよ。言う通りにしなさい」と怒られた。言われるがままにメイク道具も持って行き、そしてその際に持ってこいと言われた香水がミツコであった。

 

食事もままならず、箸を持つことも震える手で、当日きっちりと化粧をしていた。祖父はもっと前に亡くなっているのだが「私、旦那様にすっぴん見せられる女の気が知れないわ。私ずっと寝化粧もしてたもの、なのに入院中すっぴんで人前にいるの、本当に嫌よ」とブツブツ言っていた。

 

そうして数日の外泊を楽しみ、病院へ戻り、時が来て旅立った。生前に「恵さん、死に化粧のことだけど」といきなり言ってきたので私はブフっと飲んでたお茶を吹いた。

「知らない人のメイク道具でされるの嫌なのよ、ちゃんと私の愛用品でやって。できればあなたと、おばちゃん(祖母の妹)とにやってほしいわ。ちゃんと香水もね、多分瓶は棺に入れられないけど」

 

言われたときには冗談のようにかわしたが、当然心に深く残っていたのでそのようにした。納棺の際、私はミツコを選んだ。共に入れられた花の香りと入り交じり、ずいぶんと派手な匂いの葬儀となってしまったが、祖母が生前していたように手首にプッシュした。

 

ミツコは60歳くらいにならないと似合わない香りのように思う。いまだに私には似合わない。ただ、家に常備している。そして心が弱るとき、大きな決断をするときや不安で落ち着かないとき、家の中だけでワンプッシュする。 

 

開業するとき以来、何年もミツコには触れていなかったが今回のことを受けて先日久しぶりにワンプッシュした。久々に嗅ぐ香りが鼻の奥を刺激する。少し涙が出た。ああ、不安だったのだ。

 

相変わらず、ババアくせえ匂いだなあ、と思った。そう思った自分に安心する。

まだまだ私は落ち着きを得るには早いのだ。

 

祖母が健在であったら、この状況に何と言うだろう。きっとめそめそする私に「ちゃんとしなさい」と言うのだろう。

たまには先に旅立った人を想うのも、良い。 但し、祖母を見習わずにすっぴんにてこれを書いているが。

この渦中にて、清々しさとは。

こうして文章を書くのがずいぶんと久しぶりとなってしまった。現在世界中を震撼させているコロナにより、ただでさえ弱いメンタルがますます弱まっていたせいもあるが、明確な理由が一つある。ずばり確定申告に、してやられていた。

 

知っている方もそうでない方も、いや言わずとも分かるよという方もいらっしゃるかもしれないが、私という者は非常にバカである。どれくらいバカかというと、高校に関しては一度の退学、更に二度の留年をしており、トータルで5年半通った。5年通うなんて小学生の間違いではないかと自分でも思いたいが、誠に高校時代の真実であるから面白い。この事を字面で追うだけでは非常にみっともない話ではあるのだが、実際はとても濃い時間であったので別に恥じてはいないどころか自慢して回りたいほど充実していた、というのが本心だ。(内訳は全日制3ケ月、残りは通信制)

 

恥じてはいないが、バカに変わりはない。私の良いところであろう、素直にバカと認める。こと理数系科目は自分でも驚くほどにバカだった。厳密には数学は嫌いではなかったのだが理科がダメであった。物理なんてクラスで一人だけ0点を取ったりしたものだ。本来なら、ここまで意味不明なテストなんぞ無記名白紙で提出したいところを、堂々と名前を書き、自分なりに問題に取り組んで0点だったのだからむしろ褒めてほしい。と、当時から屁理屈だけは達者だったので親にも先生にもよく怒られた。

 

更に加えておかねばならないのが、私は壊滅的にPCが使えないのである。今も苦手だが、三十路になりたての頃なんぞ機種が変われば電源の入れ方も分からない。これに関しては開業前の神奈川時代、勤めさせて頂いた酒屋さんでPC業務があったことによりかなり慣れさせて頂いた。入った当初はPC画面上の文字をタッチしてしまい先輩に「井口さん、スマホではないから…」とご指摘を受けるくらいPCに不慣れであった。

 

更に、更に加えよう。この以前までさんざん書かせて頂いた通りで、私の2019の

年末というのは臨月、出産で大騒ぎであった。というか2019のほとんどを妊婦として過ごし、大いなる情緒不安定の一年であった。さて、ここまで長々言い訳を羅列したのだが、何が言いたいのか。言う。言うよ。ていうかもう、今回はこれが言えればもう良いんだわ。

 

確定申告終わるってこんなに清々しいのかあああああああ!!!

 

 

軽減税率に伴い、もともと飲食店がメインではなかったそれまでお世話になっていた税理士さんに捨てられ、新たに契約を結ぶ余裕もなく、某会計ソフトを用いて地道に収支を付け続け、お腹が大きくなるにつれ赤ちゃんのことを考えたいのだが常に頭の隅には確定申告、里帰り中も実際作業に追われる確定申告、何なら分娩中も悩みは確定申告、陣痛が激しくなった時間帯だけ「確定申告とかどうでもいい!!」と心の中で叫んだが叫んでいる時点でちっとも頭から消えていない確定申告。もう、夏頃からずっっっっと我が脳内を占めていた。こんなに長期的に何かひとつのことを想うって何時ぶりだろうか。夫に恋心を抱いていたあの頃よりもよっぽど一途に想っていたのではないだろうか。もはや確定申告のことが好きなんじゃないだろうか…?!うっかりときめきと間違いかねぬほどの想いをこの半年抱き続け、ようやっと、解放されたのである!なお、今は言える、こんな思い長期的に負担することは人生として非効率なので、外注なり何なり他の術にて今後はやりましょ

 

そして今件については、もう感謝をしつくせないほど某お客様方にお世話になりました。私の力ではできませんでした。最終的に会計ソフトが撃沈していくさまを見ながら、お力をお貸し下さった方が天使に見えました。コロナにより世紀末感を語る人々も世界にはいるようですが、あえて悪いジョークに乗るなれば、もうここはヨハネの黙示録弾かれる電卓の音はさながらラッパの音色眩しい天使の姿を目の前に、税務署提出という最終審判を待つ我が身よ、振り返れば長いようであっという間のひと時であった…と領収書の束を見つめるこの胸にせつない風が吹いてたっていうかああ、もう、虹のように浮かぶストーリーでサザン聴きながら海でダラダラ酒飲んで遊びたいぜと今は辛いこのコロナデイズの先に必ずある希望を確信し、歩んでいきたいと思っております。気が塞ぎますが、気のままに任せてはいけない。意図して思いを方向付けなければ、人間みな流れに飲まれるのだから。今後何度でもお礼させて頂きたく思いますが、この度の私を助けて下さったお方へ心からの感謝を。

 

久しぶりに書いたら脈略なさすぎて酷いですね。とりあえず確定申告終わったんだぜって言いたかった。自営なんだから当たり前だろとかまともなご意見は聞きません。

 

家での時間が増えざるを得ない今、これからたっぷり戯言を綴らせていただこうと思います。次回からはちょいボリューム抑えます。

 

 

 

出産②

「あれ、漏らしちゃったかな…?」

26日の午後、私は尿漏れと間違う生ぬるい感覚を覚え、破水と診断された。この頃には陣痛も後半戦に突入している。

本来であればLDRという陣痛から分娩、その後の休息までをその場で移動なく出来る設備の部屋にて一通りを経過する予定であったため、その間にかけようと思っていたBGMやらアロマオイル等の準備もしてきたのだが、まさかの「LDR渋滞」により、私は分娩の兆しがみえるまでは予備陣痛室で過ごしていた。いついざLDRへ移動になるか分からないので音楽もアロマもここで広げるのはやめておこう、となるべく荷物を開けずに過ごす。この時点でお腹の張りを示す数値は90位であろうか。


だんだんと増してくる痛みと、狭まってくる痛みの波。
知識として「陣痛とは10分間隔くらいから始まって…」「5分間隔くらいになって…」「順番は人それぞれだが破水をして…」と知ってはいたが、本当にそうなのだなあと
ぼんやりと思いつつ、リズミカルに押し寄せる痛みの波に素直に従っていた。

痛いに加えて、「なんか、出そう」という感覚が時と共に激しくなってきた。助産師さんに「いきみたい感じですか?」と聞かれ、ああそうだそれだわ、と他人事のように納得する。

が「子宮口が全開になるまではいきまないように」と指示をされる。今がどれくらいか確認するとまだ5、6㌢程であった。


オイオイ全開になるまでってちょっと、子宮口の全開って10㌢なんでしょ、まだ半分じゃんかよどうすんだよ、と助産師さんに言いたかったが、そんな発言をする力も節約したい意識が働き「分かりました」とだけ答えた。そうか、今私に求められているもの…これが噂の、いきみ逃しというやつか!


陣痛が本格化してからというもの助産師さんたちは皆、「井口さん、すごく冷静ですね」とこの数時間ずっと褒めて下さっているが、取り乱す余裕がないだけである。ひたすら深呼吸だけに集中していた。


感覚としては、子宮うんぬんより尻だ。尻をどうにかしてほしい。波がくると、腰から尻が外れそうな勢いが体の中でうごめいている。持参していたテニスボールと野球ボールを用い、その上に体重をかけて座るようにしてみたものの、もはやボールがそこにあるのか存在すら感じられないため、ボールは即お役御免となった。

時折助産師さんや実母が手でお尻を押してくれたのだが、それももはや気休めである。とにかく、こんなに勢いの持った尻は初めてだ。


ふと気付くと、痛みの波が更に短くなってきている。お産が進んできてるのだな、と思うもつかの間、痛みのギアがもう一段階上がった。


「!」


初めて自らナースコールを押した。尻からもう何か出るに違いない、いやむしろ出てるんじゃないかといわんばかりの勢いで、私という一個体の中で主役はもう尻である。私の想いとか考えとか、夢とか希望とか、仕事とかやりがいとか、売上とかワインとか確定申告とかもう全てうるさい黙れという感じだ。今はただ、尻から何か出てないかどうかを確認して頂きたい。

内診の結果、子宮口が7㌢を超えた。今のところ尻からは何も出ておらず良かったが、LDRへ移動することになった。車椅子を用意されそうになったが、そこに座る手間の方がしんどく思い、よろよろと歩いて移動した。この間にも促進剤は増えていく。もうやめてくれ、という思いで点滴を眺めるも「産まれるまで終わらないのだ」という当然のことを今一度思い、気が回るときにはひたすらお腹を撫でるようにしていた。

 

ああ、痛い。痛いってことは順調なのだ。順調にこの子は、こちらに出てこようとしている。


LDRで台に上ったあたりでは、更に痛みのギアも上がる。またしても「!!」とビックリマークが全身を駆け巡るようである。この痛みは天井知らずなのか?どこまで強まるんだ?!

心の中ではそれなりにパニックであったが、実際にはほぼ無口でいた。ただでさえ喋るのが億劫なタイプの私にとっては、このような局地的場面において真っ先に省エネを図りたい部分こそが声を出す行為であったのだ。この時もまた「井口さん取り乱したりしませんね」「呼吸が徹底されてて良い調子ですよ~」と助産師方には褒められていたが、返事をするのも面倒であった。

子宮口は9㌢になり、あともう一息である。楽な体勢で良いよと言われるものの、何が楽なのかよく分からず困っていると、担当医が巨大な真ん丸のクッションを持ってきてくれた。それにしがみつくと、いきみを逃しやすくとても助かった。

 

そしてこの時、不思議と眠気に似た初めての感覚に何度も何度も陥った。
痛みの間隔は3分を切っていて、ざっと約1分痛みを味わうとすると2分休憩があるような感じであるが、その2分の間に私は気を失っていた。それも温かい感覚でだ。
痛みが来ると起こされる。痛みの間だけ痛みを味わいあとは寝る、ような感じで、私はこの時に創世記の「人を深い眠りに落とされた」という内容を思い出していた。

自分の意識が痛みから遠ざかる度に、私自身はゆらゆらと心地よい流れに乗っているような、そしてすぐそばまで新たな命が押し迫ってくるその勢いは、赤い津波のように見えた。陣痛然り破水然り、私が指令しているわけでもなく、意識の届かぬところでいざお産が進んでいくこの体は、自分のものであってそうでない、神秘的であり、システマチックにも思えた。


と同時に、お腹を撫でながら赤ちゃんへ声もかけていた。もうすぐ会えるのを感じていた。早くおいで、と言いたかったが変に急がれて必要以上に痛いのも困ると思い、マイペースで良いよと言いつつ、既に名前を決めていたが母にまだ知られてはなるまいと思い、「赤ちゃん」と呼んでいた。うっかり名前を呼ばないよう気を付けるだけの余裕はあったといえる。

 

そうこうするうちに子宮口は全開となり、いきむことになった。よし、と思ったものの、この数時間ひたすらいきみを逃していたため今度はいきむってどうやって?!と
頭が混乱し、コツを教わったりしながらしばらくいきむ時間が続いた。好きな時にいきめば良いわけでもなく、この時点では1分を切っている痛みの波に合わせる。ここから難航したため結果的に会陰切開、吸引分娩と処置をしていただき、19時過ぎに無事に我が胎の子は産声を上げた。


自分もこのように世に生まれたのか、とぼんやり考えていると、私の胸の上へ赤ちゃんがやって来た。
自分はきっと感激で泣くだろうと予想していたが、意外にも泣かなかった。ただ赤ちゃんに、よく頑張ったねと声をかけて体を撫でた。

 

生あたたかな、私ではない別の命の体温を抱きその顔を覗く。初対面である。子の顔はこれまで想像がつかなかったので、いざ対面し妙に感心する。
可愛いとか感動より、この子がずっとお腹にいたことや過去、未来、きっと私が死に至るまでのあらゆる時間が、この子と出会い共に生きることなのだと一つ答え合わせをしたような、全ての理不尽さすら腑に落ちる圧倒的な尊さを感じた。


切開後の処置等して頂きつつ、私はすでに空腹を覚えていた。昼食をとばした上、出産時刻がまさに夕食の配膳時間であったため当然こちらには配膳されず、今夜のご飯がないことを不安に思い、母にコンビニでおにぎりを買ってきてくれと頼んだ。

数時間後よろよろ歩いて部屋に戻った時には「ああ、無事に帰還した…!」とほっとした。自分の手荷物が愛しく目に映った。


早速おにぎりに手をつけようとしたら助産師さんがやって来て「えっちょっ井口さんお腹すいてます?!もう食欲あるっていうのはすごく良いことなのですが、一応まだ経過見てるところなのであと2時間は食事を控えてほしいかな…」と
非常に遠慮がちに言われてしまい、やや恥ずかしくなった。何ならおにぎり2個では足りないと思っていたところだったのに…まだ食べちゃダメなんて…!


日頃から「どちらかと言わなくても不健康」の私が、酸欠も貧血も起こさず無事に出産に至ったことは自分で一番驚いている。心拍落ちることなく娘が本当に頑張ってくれた。妊娠することから始まり、出産に至るまで育ってくれたこと、1日1日が奇跡的な積み重ねであるとまさに身をもって感じた。

 

そしてこれを書いている今、新生児の彼女に私の全ては占められ小さな小さな彼女の1日1日がまた奇跡的に感じている。今後ずっと感じていくのだろう。

 

そんな私は現在36歳でもう小さくも可愛くもないが、この一部始終を見守る私の母もまた、こんな気持ちでいてくれているのだと知る。後にも先にもこんなに実家で過ごす機会はないと思われるこの里帰り期間はきっと、のちに私にも母にとっても色濃く思い出される貴重な時間になるのだろうな…。

これから訪れるあらゆる事に期待と感謝をもって、共に歩む新しい存在にめいっぱいの愛情を注いで生きていきたいと思います。


長~い文章、お読みくださりありがとう。

分娩後に食べたセ〇ンの赤飯おにぎりは、さいっこうに美味しかった!!

出産①

人間が1人増えるには、例えば「働き盛りの30代が欲しい」とか「ある程度大きくなった5歳くらいからよろしく」と願ったところでアメーバのように増えることはなく、必ず女性の胎に受精卵が宿り、胎児となって時が満ち、その個性や性別は選べず、赤ちゃんとして産声が上がる。

出産、と呼ばれるこの流れを経ないことには人間は増えず、また胎児はお腹の外へ出て来られない。経膣分娩か帝王切開という2パターンがあるものの、自由にチョイスできるわけではなく、状況に応じてどちらかを経るのみである。間違っても口やら他の穴から出てくることもない。

 

これを書いている私や私の夫も一応人間であるため、類に漏れず上記の流れで時が満ち、いよいよ胎の子と私は出産の日を迎える事となった。

 


12.25

出産予定日当日、入院準備をして病院へ。

 


前日の診察にて、以前から担当医と相談してきた「予定日がきたら誘発剤使ってみましょう」という話の通り、その使用が決定した。既に胎児の発育が充分であったため、予定日を超過すると難産になり得る点や、私の骨盤に対して胎児の頭が大きいなどの理由に加え、年末という大人の事情もあった。

誘発剤の使用は誕生を急かすようで不自然な行為ではないかと悩んだが、正月に入って人員が手薄になった病院で、万一緊急事態で苦しむ羽目になるのはもっと嫌だなと思い、この流れも一つ身を任せるべきと腹を括った。

 


入院した日は特に何をするでもなかった。「明日に備えてよく休んでね」と医師や助産師に言われたが、全く気は休まらずボロボロと涙をこぼしていた。

怖くて不安だった。

普段ではあり得ない時間帯に夕食をとり、シャワーを済ませ、早々に消灯された室内で、恐怖も不安も消化できずにいた。出来るものなら酒でも一杯ひっかけたい気分であった。妊娠中、嫌悪したアルコールをこんなに欲しいと思った夜は他にない。

 


明日の今頃には、この大きなお腹から赤ちゃんは出てきているのだろうか。誘発剤は人によっては効かないケースもあると説明を受けたので(その際はまた別の薬)、もしかしたら痛い思いをするだけして、結局まだ産まれることなく苦しく過ごしているかもしれない。副作用で具合が悪くなることもあるだろうし、何より赤ちゃんは大丈夫なのかな…

 


考えたところで、無意味である。私がどう思おうとて、時間がきたら遂行されるのだ。翌朝8時には点滴開始だ。メソメソしつつ朝の5時頃やっと眠くなり、2時間寝た。

 


起床後は検温されたり専用のパンツに履き替えたりしながら、なんとなく冷水で顔を洗いたくなった。

お湯も出るというのに、キンキンの冷水で洗顔を済ませた。手がかじかむ。

 


当初の予定ではバルーンの挿入後、点滴開始となっており、それが私の心を憂鬱にさせていた。要は器具を入れて、開いてないもんをこじ開けるという要領だ。

陣痛を迎える前に、さらに別口で痛い目にあうという予定に落ち込みながら内診を受けると「一晩で子宮口が3㌢まで開きましたね、バルーンはナシでこのまま点滴にいきましょう」と先生。

 


な、なんと…!!奇跡的なバルーンの回避に、私は一気に心が楽になり、前向きになった。

 

厳密には前向き、というよりこれもまた、腹を括るに近い。「まな板の鯉」とはまさにである。今から何を工夫してみても、どうせ痛いのだ。初体験の痛さをこれから迎えるのだ。妊娠中にソフロロジーの本など多々読んではみたが、実際的にはどうなのかイマイチ想像が付かない。

 

ただ言えるのは、痛いからとて騒いでみても、痛みは軽減するどころか体力を消耗するばかりで、おそらく私のような軟弱者は分娩時にエネルギー不足に陥るであろう。改めて自己分析すると、私は「高齢出産」「妊娠前から運動不足」「20㌔肥えた妊婦」という、この体力勝負といわれるお産に対してかんばしくない条件を併せ持つ者である。とにかく今日のキーは省エネだ。痛みを味わうのは最小、最短が望ましく、それを叶えるには極力リラックス状態に自分をもっていく必要がある。それは緊張や恐れを心から締め出すこと、ともいえる。私の緊張は未知なる体験へ、恐れは痛みへ対し感じている。だが、どちらも回避不能なら悩む必要がない。

「力を抜いて痛みを味わう」のが最善策であろう。

 

運ばれた朝食をとりながら、その合間にも細かに血圧など計測されつつLDRへこもる準備を進めていると「井口さん、すみません。LDRが混んでいて陣痛進むまでしばらくこのお部屋で良いですか」と助産師に言われる。


イヤですとも言えないので成されるがままその場で点滴が始まった。誘発・促進剤用の点滴針は通常より太い。聞けば、もしもの際に輸血に対応するためだそうである。

 

実母がウィダーインゼリー等を持って付き添いに来てくれた。

 

初めは5mlだか10mlだかであっただろうか。点滴と共にモニターにも繋がれ、胎児の心拍と私のお腹の張りの数値を眺めながら、静かにこの日が始まった。少しずつ張りが増してくるお腹に「ああ、点滴効きそうでよかった」と思った。

 

30分毎に点滴の量が増え、伴って私のお腹は痛みを感じ始めた。私はお産の間はひたすら、深呼吸に徹底することを決意した。赤ちゃんに届ける酸素のためにも、自分の気を紛らわせるためにも、痛みの間を測るためにも、序盤の方はあぐらにて深呼吸に徹していた。

 

点滴開始から3、4時間程経過し、モニターの張りの数値からするともうとっくに痛い数値だったようだが、小学生の時に2度入院する羽目になった病気による腹痛に比べたら、陣痛という理由のある痛みはそれだけで安心感があり穏やかな気持ちでいられた。ただ、もちろん痛い。途中配膳された昼食に関してはとてもじゃないが一口も手を付けられず、ウィダーインゼリーに助けられた。

 

そう、言い換えれば陣痛とは赤ちゃんが生まれようとするエネルギーである。ソフロロジーの本にもしつこいまでに書かれている通りで、読んでいた時にはピンと来なかったが、いざ始まってもみると明らかに先述のような病的な痛みではないことを体で理解し、非常にポジティブなパワーを感じたのである。だからとて痛いは痛いし、決してウキウキでハッピーなお産!みたいなテンションにはなれないが、前夜までのボロボロのメンタルからは打って変わって落ち着いた心の自分が陣痛に向き合っていた。

 

そうこうしている午後、破水した。私の場合、破水の感覚は完全に尿漏れで、助産師さんに言われなければ破水と分からなかったかもしれない。

12.26、

後ほど娘の誕生日となる。続く!

学生時代の言葉の宝


ぼやぼやと駄文を書かせて頂いている今日この頃であるが、FBにてシェアすることにより、予想していたよりも多くの方がご覧くださっているようで驚いている。また思ってもみない方やずいぶんとご無沙汰していた方などから個別にメッセージを頂戴したりと有難い現象も起こるので、投稿というのは実に興味深いと改めて感じるばかりだ。

そのような中で数人の方々から質問を受けたのでハッキリとお答えするが、私は文学部出身などではない。誠に恐縮かつ光栄な誤解だが、大学なんて行ってないですよー高卒ですよー!

ただ、卒業した高校が東海大系列の通信制であるため、在学中は東海大オリジナルらしき授業である、現代文明論というものを選択していた。

選択のきっかけは、ちょうどこの科目の担当教師が若い女で、万一遅刻したり何か不備が生じたときにも、大して怖くなかろうというナメた考えによるものである。他のベテラン教師陣の科目では誤魔化しがきかなそうなことも、てきとーにさぼったりできそうと踏んだ。また年間の時間割を見ても現代文明論は午後に組み込まれていることが多く、登校日に昼寝できる科目が一つ欲しかったのである。授業には関係ないが、かなり綺麗な美人先生だった。おそらく20代後半くらいではなかろうか。

現代文明論は学校創立者である松前重義という人が作ったという、独自のカリキュラムだそうだ。ちなみについ最近になって松前重義内村鑑三に師事していた熱心なクリスチャンだったことを知った。個人的に驚いている。在学中は創立者の背景なんてまったく興味もなかったが。


通信制高校は現代は少々制度が変わり、卒業にあたっての条件などが私の在学中とは異なるが、基本的な日本の高等学校としての必修科目を履修さえすれば自由に科目を選択できる。大学と同じような感じで年間に必要な単位数などは決まっているため、それらを間違えないように授業を組んでいかねばならないが、多少の自由は嬉しいものであった。


現代文明論の印象は、「とにかく、文章を書く!」であった。

大学で学ぶのとはまた違い、この16,17歳くらいの時期だからこそ、今でも鮮明に思い出せるくらい非常に影響力が及んだのではないかと思う。
通信制なので、どの科目も共通して平日は定期的にレポートを作成し、郵送にて提出するのが常となるのだが、現代文明論での日常レポートは完全なる作文。
毎回テーマを与えられ、日常的に提出する分は確か規定が800字での作成であったかと思う。中学生の作文だって3、4枚くらいのボリュームになるのに、わりとそれなりのテーマを800字というコンパクトな字数で書けというのは結構難しかった。

時には小説であったり詩や日記と、いろいろな形での書き方を挑戦させられた。
スクーリング時では「2000字を200字に要約する」とかその逆(200→2000)、「同内容のネタを新聞社2社以上の記事を読んでまとめる」とか、かと思えば半年かけて児童文学の1作品をひたすら読み込み、都度感想文を書く、とかもやった。作文が嫌いな人にとっては1ミリも楽しくないと思われる。

 

私は文章を書くことは好きであったので特に抵抗はなかった。むしろここまで書く行為を与えられて、楽しかった。手を抜く気満々で選択したはずが、毎度しっかり取り組む科目となった。午後だからとて眠くなることもなく、面白いなあと思いながら授業を受けていた。

 

そして、提出するレポートには毎回私の字数以上の勢いで美人先生による「お返事」が書かれて返送されてきたのが私には大きかったのだと思う。
毎回ぎっしりと、赤ペンで私の提出した内容に対しての感想を書いてくれていた。それまで特に先生という存在に褒められるようなこともなかった私が、このお返事ではいつも褒めてもらっていたのだ。
その字の丁寧さと、熱いお返事の内容は私にとって安心感とやりがいに繋がっていった。
とはいえ、レポート上では熱くやりとりをしていながら実際の登校日にはほぼ美人先生とは絡まなかった。

何とも言えない不思議な関係性が、通信制では「あるある」かもしれない。
少し現代のSNSに近い感覚というか、現実とレポート上での関係に差があることを当たり前と受け止めている。こと現代文明論という、文章を書く科目の特性によるものであるとは思うし、また私自身がスクーリング時に見せるキャラクターと、レポートの中に落とし込むキャラクターとでは無意識に分けていた側面もあるからだろう。

当時の私は「自分の娘がこれじゃ絶対にいやだ…」と、今まさに出産を間近にしても思うような女子高生であったため、まさに悪いことばかりして調子に乗っていた頃である。
なので、そんな私が真面目に書いている文章を読んでいる先生と、実際に親しくするのは何だかこっ恥ずかしくて気が引けた。友人らには見せることのない、当時の自分の考えなり想いなりが唯一ばれているというか、決して弱みではないのにまるで秘密を握られているような感覚でもあった

言い換えれば人と接することでは出すことのできない部分を当時から自覚していたし、そしてそれをどうすれば良いかを持て余した年代でもあり、私という者がただただ口を開くならば溢れてくる言葉というのは、少なからずこの科目を通じて解放されたといえる。

実生活にて人に接する際は、いわば「それ用」の言葉であるため何かしらのフィルターを要するし、そもそも言葉とは相手に伝わらなければ意味がないので、年々自然と伝わりやすさを考えるようになる。更には「年相応」とか「モテる」とか「建前」とか、付加する要素が増してくるのだから、おそらく「純粋に湧き出てくる言葉」なんぞ成人を迎える前に見失うのが普通ではなかろうか。私もここでの駄文を通して好き勝手に書かせて頂いているが、ネット上である限り所詮「それ用」なのだ

ゆえに、まるで筆速と同時に初めて見る自分との対面を追っていくような、猛烈なまでの流れを持った思春期の時代に自分一人で没頭する文章、は書いた後に脳みそが汗をかくような爽快感があった。それはそれは見境がなく、闇雲に想いをぶつけまくるような世界が気持ちよかった。もちろん最低限の文の構成だの書き方についても授業にあったかと思うし、単位を取っているということは多分ちゃんと勉強したとは思うが、まったく記憶にない。

今の自分ではもう書くことが出来ない、良い意味での厚かましと、悪い意味での控えめさがぐっちゃぐちゃに混在したレポートの数々であった。卒業後も、より抜いた何点かをどこかにとっておいたはずなのだが今となっては行方不明だ。

 

そして、これだけ思い出として語っておきながら、美人先生の名前が見事に思い出せない薄情者の私…。

恐怖の内訳

この週数なので、今更極端にお腹の大きさが変わることはないのだが体の中が変わってきつつあるのを感じている。動き辛さであったり、胎動の変化であったり、不眠であったりその他細かな体調面での違いが、近い未来に迫っている出産のその日を自分に教えているのだろう。

 

情緒不安定な時期が長かったことについてはこれまでも書かせて頂いたが、里帰り中の今も、わけもなく涙が出る日がある。目覚めと同時に涙が出る。そういう時はしばらく流れに身を任せて涙を流し、自然に止まるまで待ってから朝食をとるなど次の動作に入ることにしている。他のことをしているうちに涙が乾いてくることもあれば、またふと止まらなくなるときもある。今まではそこで読書したりネットサーフィンしたりと強引に気を紛らわそうとしたが、正期産の今それはもうやめた。別に泣いてても良いだろう。おそらく体がそのように求めているのだと思う。

毎日、疲れる。生きているだけで。
正直もっともっと、ハッピーで浮かれた日々になるのかと思っていた。妊婦さんて、幸せそうなイメージだったからだ。そしてそれは妊婦に限らず、結婚したらとか志望校に合格できたらとか、いろいろな節目にて思うことであると思う。


ただ、妊娠した心身というものが「実質的にここまで自分の意思が反映できない状態なのね」という体験であるのは未知の世界としか言いようがない。

とはいえ悪阻などあらゆる面で症状は軽い方であったし、経過も順調でどの時期においても比較的よく動けたからこそ、泣いて泣いて辛くなるほど働けたのだ。妊娠中毒症や切迫、胎児に何かしらの問題が生じていたらこんなふうに妊娠生活を送れはしなかった。強制的に絶対安静になり得るし仕事どころではなくなるケースも多々ある。元気に動けたのは、本当に恵まれていることなのだ。

ましてやこの週数に至るまで、胎の子がすくすくと成長し命のあることは奇跡的なのだ。

にもかかわらず、私の心は全時期に渡って曇っており、未だにきれいに晴れることはないのである。
望んでいたやっとの妊娠がこの身の上にやってきて、幸せで感謝に溢れるばかりのはずが。
嬉しくて、赤ちゃんとの対面の日を楽しみに思う心もありながら。
赤ちゃんの使うものをせっせと準備し、洋服など水通しをすればあまりの愛おしさにたまらなくなるのに、私の心は「私」から変わることを何よりも恐れている。

 

それは母になる、ということを含んでいるが、いわゆる「母になれるかどうか」という不安は、正直あまりない。なぜなら赤ちゃんが私を母にするのであって、そもそも私単独で母にはなり得ないし、無事に産声を上げる恵みを賜わるのならばその瞬間から現実が私を動かしていき、嫌でも母としての行動を重ねるのだ。

き物は意思とか意識ではなく、行動の積み重ねで変えられていくと思っているのでどれだけ意識が低かろうと私は母へならざるを得ない。ネガティブに感じられるかもしれないが、私はそのような理由から母になることについての不安はあまり感じていない。

ただ、今の私でなくなることがとにかく怖いのだ。

きっと大げさな心配なのであろうと思う。性根が変わることはないのだろうし、趣味嗜好も引き続き私であることに違いないのに、どうも今は怖くて仕方ない。
これまでやってきたこの感覚が、すべて覆される予感がするからこそ、出産が怖い。出産という行為そのものの、痛みの点でもおおいに怖いのはもちろんだが、
自分の大切に思うものや感情、単純な好みや優先順位、視界に入るものの見え方が、「母」へ変わることが怖い。
私は両極端な性格なので白か黒かでしか考えられなかったりすることが多く、これまでも生き辛いことは多々あったがよけいにそうなりそうで怖い。

 

既にいくつか、これまではむしろ好きであったものが嫌いになりつつあったりするので自分で寂しく感じたりする。誤解されたくはないのだが、ここから起こりうる変化にマイナスイメージを抱えているわけではない。むしろ、想像を超えるような幸せな気持ちを体験したりもすることと思っている。我が子への愛おしさ、という初めて体験していく想いをもってこれから生きていくのだ。それは、怖いという気持ちが隠してしまうだけで、本当は喜びに溢れているものと知っている。恐れと不安は確かに今、私の目の前を塞いでいるが、その周りにはいやでも漏れてしまうかのような光を感じている。言い換えれば、もはや恐れや不安では太刀打ちできないのだ。もっともっと力強く存在する希望が、私の胎にある。

 

ああ、そうか、きっと一番怖いのは今の私でなくなること、ではない。表面上の言葉としてはそれで合っているのだけれど、厳密に突き詰めるならば「今の私を失うこと」が「人生のマックスを失うこと」と同義語であり、それは日々過去よりも今が一番と思っているからこそではあるのだが、一見現状に感謝をしているようで実は諦めているだけの心理といえる。
無意識のうちに今より幸せな状態を自分で描けない癖がついてしまっていたのだ。

はっきりと分かった、

私は幸せを享受することが怖いのだ。

腑に落ちた、という言葉をこんなにも納得して感じたのはこれが生まれて初めてのことかもしれない。


本当に愛する人と一緒になって、家庭を築くことなど、夢か幻ではなかろうか?そんな想いが自覚の届かぬ胸の奥に、ずっと息を潜めていた。

自分なんかが、という言葉は呪いだ。特に、人に言われるよりも自らに思うことは。


分かっていたのに自分でその言葉の呪いをかけていたと今更知った気がする。自分なんかが、幸せで良いのかな、失いたくないから欲しくない。そういうものが沢山ありすぎて、欲しいと願うこと自体やめていたのかもしれない。全力で大切にすれば良いだけの、シンプルなことなのに。


予定日のクリスマスまで10日を切った。


良かった、この子と対面する前に、私はこの幸せの享受を怖がる者から喜んで受ける者に変われそうだ。

いや、むしろ願うとするならそう変われることを今は切に求めればよいのだと頭も心もすっきりした。
そして、今は静かに夫のことを想っている。
普段はぶつかることばかりだが、私の幸せは夫と共にあり、夫の存在は宝物であり、いつも愛おしい。この人と出会えたこと、一緒になれたこと、そしてこれからも歩んでいくことを私はこの人生で心から誇り、楽しみ、愛していきたいと思う。


少し重くなりました。あと一回くらい更新できるかな?私の深層心理のゴタゴタをお読み頂きありがとうございます。

 

アイラブ、イコ!

お店を開業する前は、4年程神奈川県に住んでいた。その頃は休日ともなると夫とDVDを借りてきて映画鑑賞をしており、家の最寄のTSUT〇YAによく出かけた。

ある日、特に観たいタイトルがあるわけでもなく、なんとなく棚を物色していたときのことである。
そこのTSUT〇YAは駅から遠いこともあり、一階には書店も併設され比較的広かった。DVDレンタルの二階では、スタッフさんによるオススメコーナーが何カ所か設置されていた。
ふと見るとアクション作品を特集しているコーナーに、見慣れない雰囲気の作品が丁寧な手描きPOPとともに陳列されていた。

なんで見慣れないのかな?と思ってよくよく手に取って眺めてみると、それはインドネシア作品であった。そうか、アクションといえばの香港や欧米の作品ではないため、パッケージに写っている俳優陣はアジア人でも欧米人でもなく、インドネシア人である。そういえばインドの映画はいくつか観たことがあるけれど、インドネシアの映画は観たことがなかったなあ、と思った。

 

具体的にどのような文言が並んでいたかは失念したが、手描きPOPには熱いオススメっぷりが溢れていたのは確実で、我々夫婦はその熱に惹かれた。そして借りた。

余談だが当時酒屋に勤めていた私は、手描きPOPが人の行動を変えるという売り場の現実を消費者側として体験し、改めて伝える情熱って大切だなあと感じた。

 

 結論を申し上げると、その作品は繰り返しレンタルをした上に最終的には手元に欲しくて購入に至り、私にとってもっとも再生回数の多い作品として君臨している顔も名前も知らぬ座間市のTS〇TAYAスタッフのどなたかよ、ありがとう。あなたがオススメしてくれたおかげで出会うことができたタイトル、それが「THE RAIDだ。

 

主演のイコ・ウワイスという俳優に夫婦そろって骨抜きにされ、当時の自宅ではリビングにポスターまで貼っていた。おそらく、自分が中学生男児だったりしたらもっともっと激しく憧れてしまうかもしれない。というか失礼ながら、女性にキャーキャー言われるようなイケメンでは決してなく、プンチャック・シラットという武術の師範である彼のアクションは、ジャッキーチェンに影響を受けていると本人は言うものの、素人の私が単純に感じる限りではずいぶんと趣が異なる気がする。

作風やシーンの意味合いの問題もあるとは思うが、イコのアクションは痛々しくて、切なくて、重い。そういうとさぞかし情緒的なのか?という話だが、悪く言えば暗さがあるというか、単にじめっとしているというか。

見応えとしてのキレや爽快感は凄まじいものがあるのに、なぜそのように感じるのかは自分でもよく分からないのだが。
ただ、奥の方で感じる暗さが私には魅力的に映ったのである。このレイド以外にも出演作が笑って楽しい!という雰囲気のものでもないため、それゆえかもしれないし、役者としての力量といわれるような部分についてを問うべき人ではないというか、ただただそのアクションで魅せてくれる武術家だ。尚ウィキペディアなどには俳優の他スタントマンやスタント・コーディネーター、武術の振付師として紹介されてもいる。

 

シラットはいろいろと流派や種類があるようで、軍用にアレンジされものもあったり一部においては殺人格闘技とも呼ばれているものもある。
本来は精神のあり方を軸に、日本でいう武道と同じく演舞の部門もある伝統的な武術であるが、こと対戦用では急所を狙い、確実に相手を殺すための戦法となるらしい。
手に持つ専用のナイフの形も、エグイとしか言いようがない。

そもそもがこの師範であるので、美貌や演技云々を期待するタイプの俳優ではないといえる。インドネシア人の俳優というと、東アジアや白人系の人がイケメン枠で多いようだが、イコはダンゴっ鼻のいかにもジャカルタって感じの顔である。そして前述したアクションの暗さを感じさせるわりには、人ととしては非常に健全なスポーツマンのような雰囲気を醸し出している点も私には魅力的なのである。
良い意味でアングラさがない。思春期の頃などは無駄にアングラな雰囲気を持つ人に惹かれる傾向があったが、今はもう、男も女もシンプルな人が魅力的だと思っているのでイコがたまらんのだ。実際の彼のことは知らんけど。


勝手な見解で長々と彼を語ってしまったが、何が言いたいかというと、ただ好きなのです。イコのことが好き。なんか、目の前にいたらおむすびとかあげたい。あまり芸能人などでときめくことがないので、私にとっては大変貴重な存在です。十代の頃は某バンドに精力を注いでいたけど、そういう存在あると楽しいのよね。

 

ちなみに自分と同い年な点も勝手に親近感をもっております。
娘さん二人のことふくよかな奥様えびせんが苦手なことなども日々インスタにて拝見しておりますよウフフ。今日はイコがバリのリッツカールトンで美味しそうなケーキを食べながら「バイバイ、ダイエット」と言っている動画を眺め、つられて私はマフィンを食べました。エヘ!

イスラムの人なのでお酒も飲まないため、万一お店に現れることがあったら
ハラル対応できるようメニューを考えておかなければならない…
「いつか生きているうちに遭遇することが何かの拍子で起こり得るかもしれない、その時一言もしゃべれなかったら悔やんでも悔やみきれぬ!」と思い、

妄想の力をもってインドネシア語の本を一時期ずっと読んでいたのだが、近年日常に忙殺されて勉強はまったくはかどっていない上、今年は妊婦生活につきインドネシア語どころかたま〇クラブとかばっか読んでいた。2020年は育児で更に忙殺されるのか?!

 

ちなみになぜ、突然こんなことを書きだしたかというと…

先日久々にリンキンを聴いたから…!THE RAIDの一作目はリンキンのマイクシノダが音楽を担当しているので、好きな方はそれも面白いポイントかもしれません。


アクション映画がお好きな方には是非見てほしいですが、年齢制限ありのバイオレンスなので血みどろが苦手な場合はオススメしませんのであしからず。

こんな話がまさかの、続く予定。